非の打ち所
カタカムナは、上古代人が宇宙の摂理を八咫鏡の文字にして記したものを、近代に楢﨑皐月翁が解読したものですが、現在でいう量子力学的な見識で著しています。
私の場合、イヤシロチ、いやしろについて、その後継の師匠に学んだのですが、師匠の教えは厳しく
「宇宙の摂理は、尊く気高く、崇高なもので、人としてのあるべき姿もなぞっている。そこで、この宇宙の摂理から見ると、現在の人間社会には、理不尽で合ったり、非条理であることも多い。そこで、人としては、不平や不満、愚痴なども言いたくなるのも、ものの道理だが、目的に向かって学ぶためには、人様や、世情の批判をする前に、自分自身が【非の打ち所のない努力を果たすべし】」
と仰られ、厳しいながらもその方向の努力は、してたものの,自分自身では解らないことばかり。
一つ理解できたかと思うと、それ以上の分からないことが見えてくる。
理想やあるべき姿を明確にするほどに、身近なところに、不条理と思えることが増えてくる気がする。
非の打ちどころのない世界って、どれほどのものだろうか?
そう思いながらの、毎日。
しかし、偶には思いきり羽を伸ばしたい気がして、自由な時間を過ごしてしまうこともしばしば。
そんな長年の生活の中で、見えてくるというか、カタカムナ文献に示されたことや、師匠から薫陶を受けたことが理解出来てくると、実に面白い。
カタカムナ文献の八咫鏡の文字を、楢﨑翁の解読法によって読んでくると、その意味が見えてきて、解読法の具体的解読が見えてくる。
2022年の終わりに、あるところが意識に引っかかり、その解読を掘り下げていると、自分の努力の中に非の打ちどころがたくさん見えてきた。
この一月、年末年始を挟み、その非の打ちどころを解消する、イヤシロの再現に努めてみると、正直意識の調整ほど難しいものはなかった。
しかし、その中で静電三法を駆使していると、まあ、イヤシロの生活の面白いことを沢山再発見出来た。
イヤシロに秘めたものや、静電三法に記されたあるべき姿はこそ、「非の意打ちどころのない世界」に見える。
実際の生活には、その打ちどころは満載だからこそ、その問題解決にイヤシロの叡智は遺憾無く発揮できることも再発見。
自分自身、まだまだ学びのゴールは見えないのですが、この楽しさや、凄さはさらに探求し、この不条理な世情にも十分に活かせるよう、イヤシロ教室にてお伝えしていきたいと思います。
自分で学ぶにはまず、意識の調整はカタカムナ瞑想からです。